川代山観音堂

川代山観音堂

概要

川代山(かわだいさん)観音堂(かんのんどう)
川代山観音堂は、正式な呼び名は「川代山(かわだいさん) 千手(せんじゅ)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)座像(ざぞう)といい、地域では親しみを込めて通所「観音(かんのん)様」よばれております。
江戸中期 正徳(しょうとく)元年(1711)9月21日に当時の生駒藩の重臣であった金子氏と小助川氏の願いによって、庄内鶴岡の「いもの師」が鋳造(ちゅうぞう)し、開山したとあります。
開山以来、310年以上を迎える歴史ある建造物です。

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詳細

宗派新義真言宗 福王寺末
本尊千手観世音
施主生駒親猶、金子久左衛門家寛・小助川左エ門光隆・金子佐治兵エ家慶
施行正徳元年9月21日
安政4年(1857)5月26日堂宇焼失し、翌5年中再建する。

七日町町内の皆さんが、古くから信仰して来られた川代山先手観音菩薩の由来を、その台座に刻まれている銘文によって紹介します。
本尊像は、銅に金をとかして造られた金剛仏で、その蓮華座正面に一行十字で二十二行の銘文が刻まれています。
――読み下しは省略――
この観音様は、正徳元年(1711)9月21日に、当時生駒藩の重臣であった金子父子と小助川氏の発願によって庄内鶴岡の鋳物師が、羽黒山念仏堂の隠居僧玄心と別当常薬坊の指揮のもと、片倉村右衛門(三代目当時山奉行)の持地である塩辛田に於いて鋳造し、勧請の導師は鳥海修験の学頭福王寺六十世弘弁法印がつとめました。
尚、続矢島町史下巻によると
社前の柱に川代山と掘りつけられてあるのは、金ヶ沢に鎮座する川代観音の勧請仏だからであろう。九日町の観音も川代観音の勧請仏だといわれております。
川代観音は、鶯川ダムの中に沈まなかった西側の平地、すなわち字(あざ)川代の地にまつられ後住者によって祭祀が続けられている。古住者川代氏はこの観音別当であったが・・・
その後の御堂については「明治30年(1897)不幸にして草窃(そうせつ)の厄に遭って宝冠尊容を失い、後亦火災で災上して堂宇が焼失した」とあり、すなわち首より上を盗まれてしまっております。そこで「明治34年に堂宇を再建し、昭和4年に失った頭部を新たに鋳造して、尊容をととのえることができた」としるしています。
千手観音とは、千の手をもち、それぞれの手に眼をもって衆生を済度する(すべての生き物のまよい、ねがいを救う)ので大悲観音ともよばれています。
――――七日町丁内史より――――

マップ

秋田県由利本荘市矢島町七日町字七日町74-1

川代山観音堂
かわだいさんかんのんどう
KawadaisanKannondo

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