壽慶寺

壽慶寺

概要

法華宗本門流 正明山(しょうみょうざん) 壽慶寺(じゅけいじ)
開創は寛永4年(1627)、打越左近将監光隆公が法華堂を建立しました。その後、寛文12年(1672)、生駒氏家老(市橋定右衛門尉藤原正明)が内室の三代藩主生駒親興の従姉(いとこ)の冥福を祈り供養を行う為、元禄15年(1702)に法華堂を再興しました。内室の法名(「高松院壽慶日喜大姉」)から寺号を「壽慶寺」としました。
また、壽慶寺は鳥海山登山道に通じる道でした。そのため、戌辰戦争時には庄内兵がこの寺まできて八森陣屋を攻めた古戦場跡でもあります。敷地から見える八森城址に向けて砲撃が行われたとされており、当時の様子を偲ぶことができます。

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画像

壽慶寺
壽慶寺

詳細

開創は寛永4年(1627)、打越左近将監光隆公が法華堂を建立。寛文12年(1672)、生駒氏家老、市橋定右衛門尉藤原正明が内室の菩提を弔う為元禄15年(1702)に法華堂を再興。内室の法名「高松院壽慶日喜大姉」をもって、寺号を「壽慶寺」としました。戊辰の役では、矢島領の陣所となりました。
縁起によると寛永4年(1627)前の領主、打越左近将監光隆が法華堂を建立しました。ついで、矢島藩老職市橋定右衛門が内室(三代藩主生駒親興の従姉)の菩提のためにこの堂を修復し、その法名から寺の名前を壽慶寺と称しました。
元禄15年(1702)、生駒主殿頭親興は、夫人の妙法院殿道光日経大姉と従姉の高松院殿壽慶日喜大姉の菩提のために、寺領と永代二人扶持を寄進し、用人格を以て再興、能興両山寺三十三世本事院日軌を開基、京都本能寺役者行善院日行を中興開山となし、以来、生駒家の菩提所となりました。
その後、慶応4年(1868)の戊辰の役で、矢島藩の陣所となり、激しい戦いの中で三十番神堂を残して全焼、寺宝の多くは散逸しましたが、壽慶寺什宝と印された「妙法蓮華経八巻」が昭和61年(1986)に山形県遊佐町の本願寺(浄土宗)で見つかり、壽慶寺に返還されました。
現本堂は、大正7年(1919)に再建され、庫裡は昭和63年に改築。寛政元年(1789)に建てられた三十番神堂は、文化2年(1805)の火災で焼失しましたが、文政6年(1825)十代藩主生駒大内蔵親孝によって再建され、戊辰の兵火を逃れて現存します。主な寺宝は、日蓮聖人真筆掛軸(文化元年)、妙山三十番神之記一巻など。毎年7月の第一日曜日に「鬼子母神祈祷会」があります。

マップ

秋田県由利本荘市矢島町城内字田屋の下62

法華宗本門流 正明山 壽慶寺
ほっけしゅうほんもんりゅう しょうみょうざん じゅけいじ
Jukei-ji Temple

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