乾田馬耕碑

乾田馬耕碑

概要

乾田馬耕碑(かんでんばこうひ)
明治時代まで、地域の稲作の多くは湿田で行われ、人の手による田起こしが主流でした。明治34年(1901)矢島町木在の三浦芳治は、こうした状況から米質の改良と生産性を高めるため、湿田から乾田。そして人力から馬の力による田起こしを地域に呼びかけました。当時の由利郡農会乾田馬耕教師 福岡県人毛利新蔵の誠実な指導によって矢島町の水田962㏊の内、213㏊の乾田化に成功。石碑はその記念として明治42年(1909)に建立されたものです。特に、馬耕は農業生産力発展のためには不可欠の技術改新でした。

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詳細

乾田馬耕碑は、米質を改良し多収をはかるため、湿田を乾田に改め、人耕を蓄耕(馬耕)に変えるため、明治34年(1901)矢島町木在の三浦芳治が主唱して、当時の由利郡農会乾田馬耕教師福岡県人毛利新蔵の誠実な指導によって矢島町の水田962㏊の内、213㏊の乾田を見るに至ります。
矢島町では、明治38年(1905)7月の県令第28号「乾田実施規則」を受けて、明治39年に乾田計画書を作成し、明治41年5月に矢島町耕地整理発起人会(総代、町長木村良譲)を開催し事業着手を決定したが、元町地区地主の耕地整理延期の申し合わせにより事業推進は一時的に頓挫しました。しかし、明治42年4月に民部坂に乾田馬耕記念碑を建立して事業推進の決意を示し、乾田馬耕と共に耕地整理に取組むこととなります。

マップ

秋田県由利本荘市矢島町城内字八森地内

乾田馬耕碑
かんでんばこうひ
Kandembakohi Monument

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