概要
真宗大谷派 信行山(しんぎょうざん)・廣祐寺(こうゆうじ)
廣祐寺の開祖は往相(おうそう)院釈(いんしゃく)廣祐(こうゆう)で、寺号を「廣祐寺(こうゆうじ)」としたお寺です。
廣祐の父、廣西(こうざい)は慶長年間(1596~1615)、加賀の国より諸国にて布教した後、鳥海町笹子(じねご)に草庵を創立しました。これが廣祐寺の前身です。その後、草庵は矢島城下に移り、生駒氏や地域の人々の協力のもと、二代目廣祐が父の意志を継いで、信行山廣祐寺を建立しました。
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詳細
戦国期、元亀・天正の頃(1579~92)信長の迫害を受けた北陸周辺の旧一向門徒たちは、日本海岸線を北上して東北地方にのがれました。加賀前田氏の旧臣・木越山光徳治(現七尾市)の伊東兄三人と老母たちが、天正2年(1574)に能代に上陸しました。長男廣西は母と共に鳥海山麓、笹子(鳥海町)に草庵を創立したのが、廣祐寺の前身です。ちなみに二男の行祐は男鹿船越に定着して善行寺を開基し、三男の消息は不明となっております。
その後、草庵は笹子から矢島城下に移り、藩主生駒氏や地域の人たちの協力のもと、大手門の近く田中町に堂宇を建立しました。寛文11年(1671)10月廣西は示寂し、40歳となっていた子の廣祐は父の遺志を継ぎ、弥陀の本願を弘通し一宇を建立、信行山廣祐寺と命名しました。開山の廣祐は正徳4年(1714)、93歳まで生きたといわれております。
開山以来二度の火災に遭遇していますが、文化2年(1804)、八世浄空の代(一説に七世浄寛とあり)隣家の風呂屋からの出火で全焼し、同8年に現在地に移転再築をはかり、同13年に落慶法要を厳修しました。僧俗檀徒の「同朋同行・どうほうどうぎょう」の苦心によって、十年余の歳月をもって広壮な御堂が完成したといわれております。
ところが、昭和58年2月8日、不運にも再び火災となり、堂塔・什器宝物を焼失しました。
――不幸は如来の励まし――と、僧俗檀徒一丸となり同年秋に再建し、10月25日に落慶法要を執行しました。
マップ
秋田県由利本荘市矢島町七日町字上山寺29
真宗大谷派 信行山 廣祐寺
しんしゅうおおたには しんぎょうざん こうゆうじ
Koyuji Temple