龍源寺

龍源寺

概要

曹洞宗 金嶺山(きんれいざん) 龍源寺(りゅうげんじ)
龍源寺は、元和9年(1623)に常陸の国より矢島三千石を拝領した打越(うてち)光隆(みつたか)、光久(みつひさ)親子が現在の場所に、打越氏の菩提寺として開基したお寺で、令和5年には400年の節目を迎えました。
その後、2代目となる光久に跡継ぎが無かったため、領地返上となり、寛永17年には四国高松17万石、4代目藩主生駒高俊公が家臣の騒動のため、移封され矢島に入り、龍源寺を菩提寺としたのが、現在の龍源寺となります。
龍源寺の境内は墓地を含めて約6,000坪といわれ秋田県内でもまれに見る大きな規模を誇っております。
また、龍源寺には生駒家ゆかりの品々が所蔵されており、陣羽織、藩主の肖像画などがあります。
雄大な茅葺き屋根の本堂は平成16年に国登録有形文化財に指定されています。

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詳細

矢島町の中心にある市街部の北西にある高台、通称「ご家中」と称する台地で、旧生駒氏の陣屋跡「八森城址」や、讃岐から分霊を請け安置した金刀比羅神社、祈願寺真言宗福王寺・法華宗壽慶寺・龍源寺の脇寺的働きをしたこともあると伝えられている曹洞宗祥雲寺などをはじめ百近くの家臣団屋敷のあったご家中の北側、老杉の中に静かに建つのが龍源寺で、城址現小学校から桜小路・橘小路と進み、石垣の上に建つ白壁の土蔵の角を左折すると真正面に山門の間から見えてくるのが龍源寺であります。

 土蔵の持主は故河西氏、高松からの家臣で住居は戊辰戦争後建てられ殆ど手を加えられない見応えのある建物であり、屋敷を囲む杉垣根も珍しいものです。また、龍源寺左前屋敷続きに、これまた高松から由緒ある重臣の住まいした「矢島町歴史交流館」があり、城下町を代表する一角に建つのが龍源寺であります。

 元和9年(1623)常陸国行方郡新宮より矢島三千石の領主になった打越氏の開基によるのが龍源寺で、二代で改易、その後で、寛永17年(1640)讃岐国十七万千八百石の生駒高俊が、家臣団の争いなどにより改易、矢島一万石を堪忍料として拝領移封し龍源寺を菩提寺とします。裏手高台には初代高俊公と母堂円智院様(藤堂高虎養女)の墓所があり、旧家臣団の墓や一般檀家の墓が数多くあり、本堂須弥壇の裏手には、生駒家歴代の御位牌と家臣団の位牌を安置する御霊屋を持ち、開基堂・開山堂・中興堂には一般檀家の数多い位牌を安置している開かれた藩主、生駒家の菩提寺であります。

 寺院は戊辰戦争で焼かれたが、当時の住職並びに檀家一同の努力により明治15年に落慶、以来140数年建築面積133.6坪の平屋寄せ棟作りの茅葺屋根の大伽藍を災害から守り、度々の屋根葺工事を繰り返し建築時の威容が守られてきた本堂・中央の千鳥破風付きの向拝も葦葺きでバランス良く重厚さを感じさせます。 

 建物全体が梁間の大きさの割に軒高でないので、大伽藍が持つ威圧感は無く、むしろ温かさ親近感を抱かせ、美しく手入れされた萱屋根の重厚さ、温かみが寺院全体と調和して周囲の老杉に抱かれ、藩主の菩提寺の品位と、開かれた寺院として見る者に親近感を持たせる風格をもつ本堂であります。

 平成16年3月2日、国登録有形文化財

マップ

秋田県由利本荘市矢島町城内字田屋の下26

曹洞宗 金嶺山 龍源寺
そうとうしゅう きんれいざん りゅうげんじ
Ryugen-ji Temple

周辺史跡等


龍源寺 公式HP

龍源寺|秋田県由利本荘市|曹洞宗
秋田県由利本荘市矢島町にある曹洞宗の寺院「龍源寺」の公式ホームページです。山号は金嶺山。本尊は釈迦如来。
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