概要
土田衡平碑(こうへい)碑
土田衡平は、安政の末に、矢島藩士として江戸に置かれた矢島藩の屋敷、藩邸にて書記役を務めておりましたが、家老と激論の末脱藩。尊皇攘夷の念に燃えて筑波山事件の策士として挙兵に参加し、幕府及び諸藩の兵と戦い活躍しました。奥州中村藩、現在の福島県北東部 にて捕らえられ元治元年11月5日に29歳で殉死しております。
殉難100周年の昭和41年11月5日矢島町有志が、この碑を建立しております。
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詳細
殉難100周年の昭和41年11月5日矢島町有志、これを建てる。
安政の末江戸なる藩邸にて書記役を務めるも家老と激論の末脱藩。尊皇攘夷の念に燃えて筑波山事件の謀師として活躍。奥州中村藩にて捕らえられ元治元年11月5日斬られました。29歳でした。
旧矢島藩の脱藩士で筑波天狗党の義拳(元治甲子の変と呼ぶ)に馳せ参じ、不幸業成らじして相馬中村藩領の松永家で刑死した土田衡平。11月5日は、衡平の命日にあたり、矢島町郷土史研究会では、昭和59年に120回忌、平成6年に130回忌を矢島神社境内に祭る同人頌徳碑前に於いて、おごそかに神事祭を催しております。
幕末の志士土田衡平は、矢島藩士土田又右衛門の子として、天保7年(1836)七日町村に生まれました。
内憂外患交交急なる時、江戸藩邸に居たたまれず脱藩して京都に走り藤本鉄石の門で国学・兵学を学びます。江戸では幕府儒官古賀茶溪の久敬舎に学び、越後長岡藩の河井継之助と親交があり、互いに兄たり難く弟たり難しと称されました。
話は一転して「筑波山義挙」にうつりますが、水戸の碩学藤田東湖の四子小四郎信が「攘夷討幕」の義旗を筑波山上にひるがえしたのは元治元年(1864)3月。藩内には親幕派があって内戦の様相を呈することになってしまいます。時に野口時雍館長田中源蔵は、この義挙に馳せ参ずるが、これと相知る仲であった土田衡平は、請われてその軍師となって常野(茨城と栃木)の地に転戦しますが、湊合戦に破れて北方へ退き、助川城(日立市)の一戦を最後に田中隊は壊滅四散します。
衡平は漁船で遁れたが相馬藩領に上陸し、藩兵に捕えられて民家に幽閉され、同年11月15日、牢居の家、松永政喜邸の一室で斬に処せられました。年二十有九。
矢島神社に立派な記念碑が建立されております。
―――広報やしま昭和63年6月1日佐藤周之助氏―――
マップ
秋田県由利本荘市矢島町城内字八森3-1
土田衡平碑
つちだこうへいひ
Tsuchidakoheihi Monument
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