概要
八森城址は、由利十二頭の一人、大井氏の古城として伝えられています。
元和9年(1623)には打越(うてつ)光隆(みつたか)が矢島領主として八森城に入っており、令和5年には400年の節目を迎えました。
その後、家臣の騒動により領地没収となった讃岐高松17万石の城主生駒(いこま)高俊(たかとし)が、生計を保てるようにと矢島1万石を与えられ、居城としました。寛永17年(1640)のことです。
生駒氏は、はじめは一万石でしたが、後に領地を分家に分けて8千石になったことから、大名ではなく旗本と呼ばれました。また、建物は旗本領地での役所とし「八森陣屋」と言われました。
さて、八森陣屋は、戊辰戦争(1868年)のときに鳥海山を越えてきた庄内兵との戦いで、生駒氏 自ら火を放ち焼け落ちました。
その後、陣屋は建て直され、藩の役所「藩庁」として再び用いられました。現在は、矢島小学校の敷地として使用されています。
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詳細
由利十二頭の雄大井義久は、応仁元年(1467)信州大井の庄(佐久市)から下って矢島領主となり、ここ八森の台を見立てて居城しました。四代満安は矢島五郎と称し風姿また抜群、次第に頭角を表します。
天正四年(1576)院内山根城主・仁賀保挙久との間にすき生じ、以降戦うこと数度。
この頃満安は、八森城を捨てて新荘館に移ります。文禄元年(1592)由利諸頭の総攻めを受け、荒倉館に敗走し、西馬音内の小野寺茂道まで逃れ自刃して果てました。
慶長7年(1602)由利郡は、最上義光領有となりその武将、楯岡豊前守満茂は、同15年本荘に尾崎城を築いて居城とし、その弟長門守満広を矢島三千石に分地して八森におられました。
元和8年(1622)主家が没落したので、楯岡長門守も矢島を去りました。
元和9年(1623)(※令和5年に入部400年を迎えました。)由利十二頭の一人打越左近光隆は、常陸行方新宮から再び由利に帰り、矢島三千石を領し、矢島八森城に入りましたが、寛永12年二代光久に子が無かったので絶家してしまいます。
寛永17年(1640)讃岐高松城主、高一七万千八百石、生駒高俊は故あって家督を没収され、堪忍料として羽州矢島八森城で、一万石を賜る身となりました。
万治2年(1659)二代高清は、弟俊明に二千石を与えて、伊勢居地家を興させたが、格式は万石大名を以て隅せられています。
慶応4年(1868)奥羽戊辰戦争の変事に際し、いち早く官軍陣営に参じ、7月28日には、庄内軍四番隊新徵組による、鳥海山頂超えの奇襲を受け檄撃防戦の甲斐なく、城を自焼した後、仙北地方の野戦に歴戦して、維新の青史にその勲を留めました。
明治2年藩主親敬は矢島藩知事に任じられ、廃藩後は学校用地として今日に至ります。
マップ
秋田県由利本荘市矢島町城内八森地内
八森城址
はちもりじょうし
Hachimori-joshi Castle ruins
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