日新堂跡

日新堂跡

概要

日新堂(にっしんどう)跡
日新堂は、弘化元年(1844)に入部した十二代生駒親道(いこまちかみち)が安政元年(1854)に創設しました。
藩士の子弟を教育するために設立された学校で、医学を学ぶ医学館と道場を併置し、学頭今井光隆(みつたか)は、折衷(せっちゅう)学を主体として、右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)の気概を醸成しました。

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詳細

徳川幕府は朱子学を遵奉し、神田昌平坂に官学の学問所を興し、昌平黌(校)または聖堂と呼び幕臣と各藩子弟の修学の府としました。教授は林羅山を初代の大学頭すなわち校長に任じ、以後林家はその職を世襲して幕末に至りましたが、勿論天下有名の儒者は次々に挙げられて教官となりました。かの寛政の三博士は著名で、よく人口に膾炙(かいしゃ)されているところであります。{膾炙:広く人の口にもてはやらせてもめられる。人に知られる}
一方諸藩においても、太平の世に処するために文武の必要を悟り、藩学校を創建し、独自の校名のもと藩士の奨学に意を用いたのです。仙台の養賢堂・米沢の興譲館・盛岡の作人館・秋田の明徳館をはじめ、近くは本荘の修身館・亀田の長善館、そして矢島の日新堂もその例にもれないものです。
時は、まさしく内憂外患交々至る秋、尊王と佐幕、攘夷と開港の思想的抗争の中で、確固たる意志の把握には文と武の修練こそ、絶対的必須条件だったことと思われます。
日新堂は、やや遅れて十二代生駒親道が矢島に初入部の弘化元年(1845)に創設された。医学館と道場を併置し、学頭今井光隆は、朱子・陽明両学のいずれも偏せざる折衷学を骨子として、藩士に右文尚武の気概を培養しました。

マップ

秋田県由利本荘市矢島町矢島町地内

日新堂跡
にっしんどうあと
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