概要
魚形文刻石(ぎょけいもんこくせき)は、通称鮭石(サケイシ)とも呼ばれ、30㎝~1m前後の自然石に魚形を刻んだ石の総称で、石小刀を使用して線刻されたと考えられています。魚形を表した目的については、色々考えられていますが、豊漁を祈るためだったのかもしれません。
前杉、上針ヶ岡、大谷地、根城、龍源寺で発見されています。前杉の魚形文刻石の付近から縄文中期のものとみられる組石2基、石器、土器が発見されたことから、5,000年前から4,000年前の縄文時代中期のものと考えられています。
不思議なのは、海岸の貝塚やそれに近い場所からではなく、海からはるか上流の、いわば渓流のほとりで見つかったことと、すべて日本海に注ぐ川の上流で発見されていることです。
発見されたもののほとんどが秋田県で発見されており。そしてその中の多くが矢島で発見されています。
現在、矢島郷土文化保存伝習施設で県の指定文化財(考古資料)となっている、前杉、上針ケ岡、大谷地、根城で発見された魚形文刻石を見ることができます。
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詳細
○前杉の魚形文刻石
前杉の魚形文刻石は、長径1.5m、短径90㎝、厚さ45㎝の安山岩で、昭和6年(1931)前杉の丘陵の中腹から発見されました。
この石には多くの魚形が線刻され、このうち12匹がはっきりと分かります。大きさは最大52㎝、最小10㎝です。エラはわずかにカーブし、口はエラまで直線、目は丸点、尾は三味線のバチのような形で一見象徴的ですが、雄大で勢いのあるタッチで描かれています。
昭和6年(1931)、秋田県由利郡矢島町、現在の由利本荘市矢島町の植田末次氏は魚形を数多く線刻してある大石を発見しました。それを矢島史談会の佐藤直太郎、佐藤勇三、佐々木熊造の諸氏が現地を調査し、世に紹介したことから、同年6月11日に秋田考古会から深澤多市氏が調査を行いました。
さらに同年11月10日には喜田貞吉博士が調査を行い、「秋田考古会々誌」第2巻第5号に、秋ノ宮の稲住温泉の魚形石とあわせて、「矢島や秋ノ宮の魚の石面刻文が、果たしてどんな意味で彫られたかは勿論明らかにし得ぬまでも、前記鹿供養や魚供養の傍例から類推して、やはり古代における一種の魚供養の記念碑ではなかろうかと思われる」と結論として述べ、古代という文字を使用し、それが石器時代の遺産かどうかには触れませんでした。
武藤鐵(てつ)城(じょう)氏は昭和14年5月16日に、由利郡直根村百宅、現在の由利本荘市鳥海町百宅にマタギの事情調査に向かう途中、佐々木熊造氏の案内で石を調査し、翌15年4月、「秋田郡邑魚譚」に帰途に調査した秋ノ宮のものも共に取り上げて詳しく述べています。
その後、第二次世界大戦などもあり、魚形文刻石の存在もあまり注目されませんでしたが、矢島町の教師であった齋藤武夫氏が、石の保護保存を熱心に提唱し、同氏が主宰の矢島郷土史学会の事業として鮭石周辺の発掘を計画するにいたりました。
発掘は昭和28年6月13日、14日の両日に行われ、郷土史学会員をはじめ、同町公民館、観光協会、中学生並びに高校職員、生徒達などの協力得て、測量は矢島営林署長の大森治夫氏が当たってくれるなど、全町挙げての文化事業となりました。
このとき鮭石の付近から縄文中期のものと考えられる組石2基、石器、土器が発見されました。このことにより、鮭石も縄文中期のものと考えられています。


○上針ケ岡の魚形文刻石
昭和28年の春、由利本荘市矢島町針ケ岡から鳥海山旧道に沿って新道を通したところ、その新道に転げ落ちた大石の表面に魚刻のあることを齋藤武夫氏が発見しました。
前杉の魚形文刻石の発掘を機会に調査することができたもので、調査の際、針ケ岡に住んでいる人の話では、新道に転げ落ちた石は重く、大きな石なのでダイナマイトで爆砕しようという話もでたと言います。まさに危機一髪のところでした。齋藤氏の慧眼なくしては、発見されることのなかった石です。
その後、矢島警察署のはからいで、「この石は文化財だから手を触れるな」の立て札が建てられ、保護されました。
石は長径80㎝、短径68㎝の大体三角形とも見える不規則な輪郭で、厚さ60㎝、一面に7、8匹が線刻されてあり、石の長径から考えて、上向きが2匹、下向きが1匹の姿がはっきりと分かります。その上方にも水平に1尾いるようです。
口、エラの直線、バチ形の尾の描写方法が前杉の鮭石に酷似しています。
しかも、石の転げ落ちてきた上方の畑地は石器時代の遺物が地表に多く散乱している所で、やはり縄文中期の厚手土器が出て、前杉遺跡と同時代なことを物語っています。


○大谷地の魚形文刻石
大谷地で発見された石は長径65㎝、短径40㎝、厚さ35㎝の安山岩で、前杉遺跡発掘の1年前の昭和27年5月に齋藤武夫氏により標高約500mの高地の大谷地で磨製石斧とともに発見されました。
石には、ただ1匹だけ線刻されており、その描写は前杉の魚形文刻石を線刻した人と同一人物の手によるものと思われるほど酷似していました。直線の口の様やエラがやはり直線で、尾はバチ形と実によく似ています。
この大谷地で発見された石の描写が前杉の石と酷似していることと、磨製石斧が一緒に出てきたことから、齋藤氏は前杉の石も必ず石器時代の遺跡だろうと確信をし、前杉の鮭石と一緒に出土する物により、石器時代としての年代を知ることが出来る期待をいだいて、前杉遺跡の発掘に望みました。

