概要
斎藤寅次郎(本名斎藤寅二郎)は、矢島町出身の映画監督です。明治38年(1905)1月30日に誕生し、上京後に映画に興味を持ち、親戚の斎藤佳三の紹介で松竹キネマ映画撮影所(蒲田撮影所)に入所しました。昭和2年に清水宏と共同で初の作品『不景気征伐』を監督、昭和3年に単独で喜劇映画『浮気征伐』を監督したことをきっかけに、喜劇作品を中心に活動するようになりました。代表作には『この子捨てざれば』『東京五人男』『ハワイ珍道中』などがあり、生涯で200本余りの作品を発表しました。昭和57年(1982)5月1日、77歳で東京の自宅にて亡くなりました。
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詳細
監督昇任直後は『桂小五郎と幾松』などの時代劇や悲恋物を発表していました。『不景気征伐』以後からは喜劇を中心に制作し、たわいのない笑いをモチーフにした作風はナンセンス喜劇と称されました。日本の喜劇はアメリカから輸入されたチャップリン、ロイド、キートンらのアメリカ喜劇の影響が見られますが、蒲田撮影所所属時の斎藤監督の作品は特にスラップスティックコメディ(ドタバタ喜劇)の要素が顕著とされます。
撮影当時の社会情勢や事件を作品に取り入れることがあり、例として突然工場の煙突に登った男の事件を受けた「煙突男」、上野動物園から黒豹が脱走した事件を受けた「黒豹脱走曲」などが挙げられます。また、当時の映画はサイレンス(無声映画)に活動弁士が語りを添える手法が主流であり、斎藤監督の作品も無声映画が主でした。監督初のトーキー(有声映画)は昭和11年(1936)4月15日発表の「女は何故怖い」でしたが、トーキーへの挑戦について、昭和11年5月発表のコラム「トーキーは何故怖い」では「声の芝居の必要を感じた」と述べ、俳優らに明瞭な発声や台詞の記憶を求める声明を出しています。代表作と呼ばれる作品の多くはサイレンスですがフィルムが現存するものは少なく、著名な作品のほとんどは東宝移籍後のトーキーです。
斎藤監督が東宝に入社した当時、東宝撮影所では榎本 健一、古川ロッパ、エンタツ・アチャコといった著名な俳優が出演する映画が人気を博していました。斎藤監督が彼らを起用した作品では「エノケンの法界坊」「ロッパのおとうさん」「エンタツ・アチャコの新婚お化け屋敷」などが特に好評でした。
戦時中も作品の制作は続けましたが、検閲の影響もあってか、「南から帰った人」「敵は幾万ありとても」といった従来の作風とは異なる戦争映画を発表しています。「南から帰った人」については自作の紹介で「面白くない映画でした。」と語っています。
戦後はフリーの監督として新東宝・松竹・東宝などで活動を行い、のちに流行語となったアジャパーで知られる伴淳三郎出演の「吃七捕物帖・一番手柄」といった時代劇や戦後の歌手として著名の美空ひばりを起用した「のど自慢狂時代」「東京キッド」などの喜劇を発表しました。その後も作品の公開を続け、昭和30年(1955)には蒲田撮影所時代のコメディを再利用した「お父さんはお人好し」シリーズを発表しました。
昭和37年(1962)5月15日「大笑い清水港 三ン下二挺拳銃」の発表を最後に監督業からは退き、57歳で映画界を引退しました。以後は趣味のマラソンのため国内外を巡って余生を過ごしました。
出典
「続 矢島町史 下巻」発行 昭和58年12月27日 編纂 矢島町教育委員会
「喜劇映画の王様 斎藤寅次郎監督」発行 平成元年1月30日 制作 高野喜代一
「日本の喜劇王 斎藤寅次郎自伝」発行 平成17年7月7日 著者 斎藤寅次郎 編者 鈴木義昭