概要
生駒氏は美濃国可児郡土田村(岐阜県可児市土田)の出で、初代 親正は織田信長、豊臣秀吉に仕えた豊臣家の三中老の一人で讃岐十七万石余の領主となり、高松城を築城しました。二代 一正は各地を転戦し、関ヶ原の戦いで徳川方として奮戦した功により、讃岐十七万石余を安堵されて藩主となりました。三代 正俊は大坂冬の陣、夏の陣に参戦し、初代 親正から四代 高俊まで56年にわたって、西国大名の雄として重要な地位を占めました。
ところが、四代 高俊の代に家臣間に対立が起こったため領地没収となり、寛永17年(1640年)に勘忍料として矢島一万石に転封されました。その後、生駒氏の矢島治政時代は明治元年まで十三代229年と続いていきます。
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詳細
元和7年(1621年)、三代 正俊が36歳の若さでこの世を去り、正俊の嫡子 高俊が10歳にして後を継ぐこととなりましたが、四代 高俊は幼弱であったため、伊勢国津の藩主で外祖父の藤堂高虎が後見役となりました。藤堂高虎は西嶋八兵衛等の家臣を派遣し、この間家臣が藩政をつかさどることとなりましたが、不幸にも家臣間の不和抗争を生じて幕府の探知するところとなり、お家取締り不行届きの故をもって、寛永17年(1640年)7月讃岐全土を没収され、改めて勘忍料として出羽の国矢島の地に一万石と江戸下谷に中屋敷とを賜わりました。
命をうけた矢島初代 高俊は、家臣とともに移封の地矢島へ向かいました。寛永17年(1640年)8月7日に江戸を出発し、同年8月19日に海路で出羽の国由利郡塩越の地(秋田県にかほ市象潟町)へ到着しました。塩越で時を待っていた高俊は、同年10月21日初冬に近い由利原高原を横ぎって移封の地矢島へと入国しました。居をかつて打越氏の居城であった八森の地と定めて陣屋をととのえ、その場を中心として城下の町づくりがなされました。矢島領主初代高俊は移封の地矢島で治政すること20年間失意の年月を過ごしましたが、万治2年(1659年)6月16日病を得て49歳にてこの世を去り、遺骸は金嶺山龍源寺に葬られました。
矢島領主二代 高清は、父の遺言に従い、万治2年(1659年)に弟の俊明を自領伊勢居地に二千石で分家させ、自らは八千石となり、大名格をはずれ江戸で交代寄合として柳の間詰めとなりました。以来、代々の藩主は公儀に仕える身となったため、藩政はほとんど領地在住の家臣に任せることが多くなりました。
三代 親興は、寛文10年(1670年)に兄高清の養嗣子となって家督を継ぎました。延宝5年(1677年)、親興が藩の財政の窮迫を救う政策として国元の重臣等の山本一族が献言した総検地を実施するように命じたことにより、不当な検地による年貢の強要に対して農民が蹶起して国主に直訴する事態となりました。要求は満たされたものの中心となった農民等が厳しい処刑を受けました。元禄15年(1702年)に江戸にて48歳で死去し、海禅寺に葬られました。
四代 正親は父の死去により家督を継ぎましたが、病を得て、子がいなかったために弟の親猶を養嗣子としました。宝永3年(1706年)に江戸で29歳にて死去し、海禅寺に葬られました。
五代 親猶は宝永3年(1706年)に16歳で家督を継ぎました。幕府の命により旗本 窪田彦右衛門を江戸の邸に禁錮した後、矢島に移して20年間禁錮し、享保13年(1728年)江戸奉行に送致しました。宝暦3年(1753年)に63歳で死去し、海禅寺に葬られました。
宝暦3年(1753年)に家督を相続した六代 親賢は子がいなかったため、初代親正の弟の血筋である津田信成女を養女に迎え、二本松藩丹羽家より親信を婿としましたが、親信が家督を継ぐも幕府の許可が出ないうちに35歳で亡くなり、海禅寺に葬られました。正式に在任したとはいえませんが、矢島では七代藩主としています。
七代 親信の死後、田中藩本多家より親睦を婿養子として迎え、親睦が八代藩主として家督を継ぎました。将軍家治より、長の労苦をねぎらうとともに江戸在勤の役をとき、国元に帰り休養をはかり国政に専念するようとのことばがあり、二代 高清以来118年ぶりに藩主が帰国し、直接領内の治政をつかさどることとなりました。天明2年(1782年)江戸にて49歳で死去し、海禅寺に葬られました。
父の死去により家督を継いだ九代 親章は四度国へ帰り、身近な藩主として親しい存在となりました。才能を認めた農民の佐藤治平や土田銀兵衛等を士分とし、治平は藩学の祖と称され教育に功があるなど、親章は有能な人材の育成に力を注ぎました。文化14年(1817年)に江戸にて45歳で死去し、海禅寺に葬られました。
十代 親孝は二本松藩丹羽家より養嗣子となり、養父親章の死去により家督を継ぎました。文政5年(1822年)に水野出羽守の求めに応じて本所下屋敷の相対替えを行ったほか、晩年には「讃羽綴遺録」により生駒藩の事蹟を後世に明らかにし、全国的に見ても藩主の著作として注目すべき書です。天保6年(1835年)江戸にて46歳で死去し、海禅寺に葬られました。
十一代 親愛の代には飛地の村替えがあり、天保9年(1838年)に帰国し翌天保10年(1839年)に帰府の途中で不幸にも陸奥国上戸沢の宿において22歳で病死し、家臣等は親愛の死去を秘して帰府し、実弟を養嗣子とすることを願い出て許されました。
十二代 親道は、学頭を今井文山光隆として藩校日新堂を創設し、医学校も併せ開き衛生館と名付けました。また、幕府に願い出て毎秋甲胃調練を行い、矢島に五度入国し、領内の民70歳に至る者に衣服を給し、80歳以上の者には口俸を与えるなど民政に意を注ぎました。安政2年(1855年)江戸にて39歳で死去し、海禅寺に葬られました。
十三代 親敬は、佐幕の色濃い東北の地で弱冠19歳にしてよく藩論を統一し、慶応4年(1868年)に天旗ならびに軍令状を賜り、勤王方として秋田藩などと共に南の庄内藩と戦いました。庄内藩による鳥海山頂越えの奇襲に遭い、八森陣屋を白焼退陣に至るも庄内藩の降伏により戦勝を得ることとなりました。
この功により親敬は、明治元年(1868年)大名に列し生駒讃岐守を名乗ることとなり、これは250年余前の生駒家三代 正俊以来のことでした。
翌明治2年(1869年)に親敬は藩籍を奉還して矢島県知事となり、矢島生駒氏十三代229年の幕を閉じました。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により知事を免ぜられ、生駒氏は矢島の領主としての役目を終えました。
このように矢島の地は十三代にわたり生駒氏の領地となり、その治政下に明治を迎え、今日に至っています。