概要
打越氏は、信州小笠原、大井氏の系譜につながり、戦国時代に現在の由利本荘市内越地域に勢力をもっていた由利十二頭とも呼ばれる豪族の一人です。打越氏十六代 打越光隆は慶長7年(1602年)に常陸国行方郡新宮(茨城県行方市新宮)へ国替えとなりました。
その後、元和9年(1623年)に再び国替えが行われ、光隆は再び由利郡へ下り、矢島三千石の領主として八森に陣屋を構えました。入部の際に打越氏の菩提寺として龍源寺を開基しました。
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詳細
打越(内越・うてゑち)氏は、戦国時代に現在の由利本荘市内越地域を統治していた豪族で、由利十二頭とも呼ばれています。打越氏十六代 打越光隆は、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで徳川家康方に属し、同時期に起こった慶長奥羽合戦において逆心した上杉景勝の討伐のため出羽庄内への押入りを命じられました。光隆はその功により恩賞として飛騨守と改名し、慶長7年(1602年)関ヶ原の戦い後の論功行賞に伴う国替えが行われ、光隆は常陸国行方郡新宮(茨城県行方市新宮)三千石へ移封となりました。
元和9年(1623年)には元和の国替えにより、かつての由利十二頭であった打越氏が常陸国行方郡新宮(茨城県行方市新宮)から再び由利の地へ返り咲き、光隆は矢島三千石の領主として八森の地に入りました。矢島へ入部する際、常陸国行方郡新宮の禅宗長國寺の白峰廣椿和尚が嗣の長國寺即殿棼廣和尚を開山とし、菩提寺として金嶺山龍源寺を開基しました。
光隆は家督を嫡子の光久に譲りましたが、光久が寛永11年(1634年)に江戸で突然に死去しました。光久には嗣子がなく、打越氏は二代12年で領地没収となりました。
その後、寛永17年(1640年)に讃岐十七万石余の領主であった生駒氏が矢島一万石の領主として移封されて来るまでは一時庄内酒井藩の預かりとなり、新たな時代へと入っていきます。