刀(國重)

概要

作られたのは慶応元年(1865年)5月で、矢島藩生駒氏の抱工(かかえこう)、宮崎國重が生駒家の家臣、東海林直八の依頼により製作したものです。
長さ72.1㎝、反り1.3㎝、元(もと)幅(はば)3.1㎝、先(さき)幅(はば)2.2㎝、切っ先の長さ4.6㎝、茎(けい)長(ちょう)21.8㎝で、この工独特の刀身に浮かぶ文様や刃文が美しい芸術的な刀です。
昭和61年2月9日、七代目、宮崎國重が秋田市の方から入手したもので、平成3年3月19日に県有形文化財に指定されました。

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詳細

峰の造りは庵棟(いおりむね)で、行(ぎょう)の棟(むね)とも言い、屋根のような形の物で最も多い形です。
刀の側面の山形に盛り上がった部分はやや高めで、表面に樹木の年輪のような模様を主調としながらも、木材の板のような模様が混じるのも目立ち、この工(たくみ)独特の鉄を何度も折り返してたたいて鍛えて出来た文様が美しい芸術的な刀です。
この刀は鍛えが特に細やかで、銀の粉を蒔いたようにキラキラと光り表情が冴えて見えます。
刃文は細くも広くもないまっすぐな概ね中直刃(ちゅうすぐは)仕立てに、白い霞が沸き立つ様な文様が規則的に並んでおり、刃文の中に極小の粒子が多く、それが刃文の縁に線状に連なって、まるで川底の砂が流れているように見えて変化と動きを感じさせます。切っ先の刃文も細くも広くもない真っ直ぐな概ね中直刃(ちゅうすぐは)で切っ先に上がって峰の方に大きく折り帰っています。
茎(なかご)は作られた当時のままのもので、先端は丸みを帯びており、反りはわずかです。厚さは先端に行くほど刃の側が薄くなっており、刀が柄(つか)から簡単に抜けるのを防ぐためのヤスリ目が意匠をこらして荒目に大きく交差するように施されています。そして、茎の側面のほぼ中央に刀と柄を留めるための大きめの目釘穴があります。
作者である國重は、文化13年(1816)頃、越後に生まれ、幼名を小川茂吉と言い、高田藩士宮崎與左衛門の養子となり、嘉永3年(1830)榊原氏に随って江戸に出ました。万延元年(1860)頃、矢島生駒氏のお抱え工となり、明治元年(1868)、矢島に住居をかまえました。
作風は刀身の表面に、鉄を何度も折り返して、叩いて鍛えて出来た、木材の板のような模様に樹木の年輪のような模様が混じったものと、木材の板のような模様に木を縦に切ったような真っ直ぐな模様がまじった文様が浮かび上がっているものがあります。
銘は「圓竜子國重作」、「羽州矢島臣藤原國重作之」、「羽州矢島藤原國重作」、「國重作」、「國重」、「羽州矢島臣宮崎武蔵守國重」と切られており、圓竜子國重作の号から幕末の名工である中山一貫斉義弘と関係があるのではないかと思われます。
明治11年6月8日に亡くなり、養子の二代目國重が後を継ぎました。
矢島での製作場所は矢島町城内にありました。子孫の七代目、宮崎國重は矢島町七日町に住んでいました。作刀は、安政から明治までと思われます。

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