今井光隆(文山)

概要

今井光隆は幼少の頃は、とても体が弱かったのですが、摂生して健康を回復し、学問に打ち込みました。
嘉永6年(1853年)藩校の日新堂の初代主宰となり、後に日新堂が廃校となってからも自宅で子弟の教育に尽力しました。
矢島の教育の興隆と維持、そして基盤を確立した功績は大きく、光隆に教育を受けた子弟達の中には、様々な分野で活躍する者が多くいました。
明治10年(1877年)8月1日に病気により68歳で亡くなり、生駒氏の菩提寺である龍源寺に葬られています。

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詳細

今井光隆は呼び名を四郎兵衛と言い、文山はその号です。
文化7年(1810年)4月8日に、江戸下谷藩邸で生まれました。
今井光隆の父、光褒は前郷の大名主、半田又六郎の次男で今井光裕の娘と結婚して養子となり、今井姓となりました。今井家は木曽義仲の四天王の随一、今井四郎兼平の末裔と称し信州より来て矢島に土着し、根井氏、打越氏に臣属していました。讃岐より生駒氏が移赴してからは生駒氏に仕えました。
幼いときは体が弱く、立つことが出来ず、4才でようやく歩き始めたほどでした。
14歳か15歳の頃に病を患い、医者に良くならないだろうと言われていましたが、自ら飲食に気をつけ、起床や就寝時間を守り、摂生につとめ、健康を回復しました。
読書を好み、中井乾斎に師事して熱心に勉強をし、数十日も部屋から出てこない事があるほど一所懸命に努力しました。
嘉永6年(1853年)藩校の日新堂の主宰に抜擢された光隆は、よく分かるように丁寧に繰り返し教え、熱心に子弟を教育しました。
明治2年(1869年)に藩の権少参事と学校教授となり、やがて大属という役職になりましたが、学教教授はそのまま続けました。
廃藩により藩校である日新堂は県立となり、秋田県学校権舎長となります。しかし、程なく廃校となってしまいました。
廃校とともに退職した光隆でしたが、それでも自宅で子弟に教授し、矢島の教育を守り続けました。
光隆の人柄は正直で私欲がなく、言葉少なで、行いは正しく、節度をわきまえ、倹約を守りました。
学問に広く通じており、事件や出来事について、客観的な証拠となりうる古い文献や器物を入念に調査し、その出来事とは実は何だったのかを明らかにすることに細かな部分まで間違いがありませんでした。
好んで漢詩を朗読し、書道や俳句、和歌も上手で、人が疑問を持って質問すれば、嫌がることも無く、事細かく丁寧に説明をしました。
子弟達は、その才能をのばし、世に出て活躍するものも多く、それは光隆の薫陶によるものでした。
光隆は明治10年(1877年)8月1日に病気により68歳で亡くなりました。
生駒氏の菩提寺、龍源寺墓地の右奥上方に今井家の墓が数基あります。その一番左側に光隆夫婦が眠っています。

サイバー記念館(今井光隆)

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