概要
伝承によると、戦国時代の由利地方は政情の不安を受けた混乱期にあり、郡司・地頭のない状態であったため由利郡の人々は安堵を願い、由利郡は信州から派遣された豪族たちによって分割統治されたと伝わっています。この豪族たちを由利十二頭と呼びます。
この内、矢島地域は大井大膳太夫義久の統治下になりました。大井氏は矢島町荒沢地区の根城に本拠地を置き、矢島を治めました。
大井義満の代になると仁賀保氏との抗争が激しくなり、由利郡の各地で戦争が起こりました。「奥羽永慶軍記」には義満の子満安の活躍が華々しく記されていますが、最期は城を追われ、文禄元年(1592)西馬音内にて自害しました。
現在の根城には石垣や礎石などの館跡と、かつて大井氏が奉ったとされる八幡神社の社殿が現存しています。この社殿は秋田県の重要文化財(建造物)に指定されています。
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詳細
「由利十二頭記」によると由利十二頭は応仁元年(1467)に信州から由利郡に下ったとされていますが、応仁元年ちょうどに12人が派遣されたわけではないと考えられています。鎌倉時代、東北地方は奥州藤原氏が治めていました。当時の由利郡は奥州藤原氏の配下の由利氏の所領でした。郡内を分割統治させる方法は由利十二頭が入る前から存在し、由利氏には由利郡内に矢島十二陣代という組織を置き、居城である豊岡城を守らせ、各地を支配させたという伝承があります。「矢島の歴史」ではこの頃から信濃の人材の流入があったと推測し、「信濃と矢島のつながりは、この時代にさかのぼって考えなければならない」と述べています。
由利氏による由利郡の支配は120年間続きましたが、建保元年(1213)謀反の疑いをかけられたことから所領を失いました。正応4年(1291)由利に復帰することが叶いましたが、正中元年(1324)に家臣の鳥海氏との争いに敗れ滅亡しました。その後鳥海氏は家臣の進藤氏、渡辺氏によって滅ぼされ、また二氏も鳥海氏の跡目を巡って争い続けたことで領民に襲われて主人を失ったため、貞治2年・正平18年(1363)に由利郡から領主はいなくなりました。「奥羽永慶軍記」ではこの後に鎌倉から地頭が下され、由利十二頭が由利郡を治め、矢島には大江(大井)大膳太夫義久がやって来て館を築いて住んだとし、以降文中では義久の家系を矢島氏と記述しています。
戦国時代の影響が由利郡に及ぶと、由利十二頭の諸氏は他地域と団結することで身を守ろうとしました。「奥羽永慶軍記」では大沢山での仙北の小野寺氏への勝利や、由利に侵入してきた庄内の武藤氏の撃退など、由利の諸氏が団結して戦う様子が描かれています。由利十二頭の出陣は遠方まで及び、豊臣秀吉による小田原攻めの際にも羽州由利の党として出陣しています。
当初由利十二頭は固く結束していましたが、矢島氏の力が強まり、仙北の小野寺氏と姻戚関係になったことで矢島氏と仁賀保氏を中心とした諸頭の間に不和が生じます。県南では庄内の武藤氏による由利郡への侵入が続いており、仁賀保氏は身を守るために他の十二頭と共に武藤氏を侵略した最上氏に臣従しました。最上氏は由利郡を超えて秋田への進出をねらっており、小野寺氏とは対立関係にありました。元は同じ信濃の小笠原氏の出身であった由利十二頭は二氏の影響を受けて争うようになります。
義久の孫である義満の時代になると、義満の客分の沓沢氏が滝沢氏と密通していたことを発端に、永禄3年(1560)義満は滝沢領に攻め入ります。この時に仁賀保に地頭としておかれた小笠原大和守重誉の孫、三代目仁賀保氏挙久が滝沢氏に加勢したことから、矢島氏と仁賀保氏による抗争が始まりました。「奥羽永慶軍記」では、この時初めて義満の子満安の活躍が見られます。この後、矢島氏と仁賀保氏の間での争いは30年近く続いたとされています。当初矢島氏は根城館に住んでいましたが、義満が亡くなって満安の代になると館の堅牢さを求めて新荘館に居を移しました。文禄元年(1593)にはさらに地勢の険しい荒倉館に居を構え仁賀保の勢力を迎え撃ちましたが、兵力の差を解決できず、館を放棄して奥方の北の院の父親である西馬音内の小野寺茂道を頼りました。しかし満安をかくまったことで茂道の異母弟の横手城主小野寺義道の間で不和が生じました。満安は自分のために茂道が滅ぼされることを案じて切腹しました。荒倉館を放棄した際には満安の息女も西馬音内へ逃れたとされますがその後の消息は定かではなく、矢島大井氏は4代にて滅びました。現在では大井氏やその配下の館があったとされる館跡が矢島の各地に点在しています。
「由利十二頭記」は長い年月の中で多くの人々に親しまれ、各地で写本が作られました。写本によって由利十二頭の描写には差異が見られます。「奥羽永慶軍記」の満安は荒倉館で敗北の後に西馬音内にて自害したとされていますが、「続群書類従」に収録されている「矢島十二頭記」の内の一説では西馬音内にて討死したと記されています。この討死のときに満安は「津雲いで やしまの沢をながむれば 木在 杉沢 小夜の中やま」という歌を残したと伝わっています。(1704字)
出典
「矢島の歴史」発行 昭和44年3月13日 編集 秋田県由利郡矢島町教育委員会
「由利郡中世史考」発行 昭和45年8月20日 著者 姉崎岩蔵
「新編 姓氏家系辞書」発行 昭和49年12月15日 著者 太田亮 編者 丹羽基二
「矢島町史 上下」発行 昭和54年12月25日 編纂 矢島町教育委員会
「続矢島町史 上下」発行 昭和58年12月28日 編纂 矢島町教育委員会
「秋田県の中世城館」発行 昭和56年3月 編集 秋田県教育委員会
「鳥海町史」発行 昭和60年11月4日 編纂 鳥海町史編纂委員会
「秋田人名大辞典(第二版)」発行 平成12年7月1日 編集 秋田魁新報社
「復刻 奥羽永慶軍記」成立 元禄11年正月 発行 平成17年2月20日 著者 戸部正直 校注 今村義孝