概要
元和8年(1622年)に最上氏の改易に伴い楯岡氏が由利郡を退去し、元和9年(1623年)10月に常陸から打越光隆が矢島三千石の領主として入部しました。光隆は家督を子の光久に譲りましたが、寛永11年(1634年)に光久が急死し、その光久に後嗣がなかったために領地没収となり、打越氏は断絶しました。
その後、矢島は一時庄内酒井藩の預かりとなり、次の生駒氏の時代に入っていきます。矢島領主としての打越氏の治世は光隆、光久の二代12年と短いものでした。
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詳細
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦後は徳川の天下となり、翌慶長6年(1601年)には各国領主の大異動が行われ、西軍に味方した形跡のあるものは所領の削減や没収が行われました。由利郡では仁賀保氏が常陸国武田五千石、打越(内越)氏が常陸国新宮三千石へ国替えとなり、その他の由利諸党は所領を没収され、かつての由利十二頭は解体となりました。
これに入れ代わり、最上義光輩下の勇将 楯岡豊前守満茂が由利郡の新領主となりました。楯岡氏20年間の由利郡統治の中で、矢島には楯岡豊前守満茂の弟である楯岡長門守満広を置いて治めさせました。元和8年(1622年)8月には最上氏が没落し、それと同時に由利郡領主の楯岡氏も所領を没収されました。
翌元和9年(1623年)には、打越光隆が常陸国行方郡新宮(茨城県行方市新宮)から再び由利郡に復帰し、矢島三千石の領主として八森の地へ入り、打越氏の矢島治世が始まります。
光隆は矢島へ入部する際、常陸国行方郡新宮の禅宗長國寺の白峰廣椿和尚が嗣の長國寺即殿棼廣和尚を開山とし、菩提寺として金嶺山龍源寺を開基しました。
光隆は家督を嫡子の光久に譲ってこの世を去りましたが、光久が寛永11年(1634年)に夭死しました。光久には後嗣がなかったため、矢島三千石が上り高となり、打越氏は断絶することとなりました。
その後、寛永17年(1640年)に讃岐十七万石余の領主である生駒氏四代 高俊が矢島一万石の領主として移封されるまでの約5年間は一時庄内酒井藩の預かりとなり、次の時代を迎えます。
打越氏の矢島領主時代約12年間のことは明らかではありませんが、残っている古文書から見ると新田開発のものが多くあります。新田開発はすでに楯岡長門守満広の時代から始められていますが、今まで戦乱によって荒廃した地域の復興につとめて新しい時代を迎えつつあったことがうかがわれます。